20年前の君へ(大企業への転職 | うつ病 | 離婚 | 事業承継)

こんにちは。
代表の佐藤哲郎です。

今回の投稿は、私個人の内容です。

デスクの引き出しを整理していたらこんなものが出てきました。

写真の通りです。高校を卒業したのは1999年。今から約20年前です。この時代でデジタル形式の卒業文集は最先端だと思います。

文化祭や行事の写真などもありますがメインのコンテンツは

「10年後、未来・将来」

です。一人ひとりが10年後の自分を想像しています。

私が綴った10年後をそっくりそのままコピペします。

『 ぼくの10年後は、とある電子部品をあつかっている、けっこう大きな会社の係長になっています。
専門学校に入学したぼくは、2年間優秀な成績をおさめ、常にクラストップになっているでしょう。

そして、5年後にぼくは結婚します。そして、すぐに子どもをつくり、2人の子どもにめぐまれながら幸せな生活を送ってるでしょう。
自分のマイホームは11年後に購入して、ローンを返すという毎日を送っているでしょう。

はっきり言って10年後、自分が何をやっているかは、分からないけど、専門学校で学んだことを十分に生かした仕事に就いていると思います。やがて脱サラして、自分で事業をおこして、地道にがんばり、忙しくなると思います。

オレは将来Bigな大人になりたいです。そして、将来の目標に向かってがんばっていきたいです。 』



18歳の頃の自分がこんなこと考えていたなんて、もう忘れてしまいました。
しかし、これまでの自分を振り返ると、時間軸や仕事の内容、会社の規模やポジションなど大きくずれていません。

まあ、大きくずれている部分もありますが・・・

以降、20年前の自分に対してメッセージを送ります。
そして最後に20年後の自分に対してメッセージを送ります。


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■専門学校時代

君は、高校を卒業したあと、電子工学を学ぶ専門学校に無事入学します。
最初の3か月間は毎日、予習復習をしてクラスでもトップクラスの成績をおさめます。

しかし、寮やクラスの友達と遊ぶことの方が面白くなり、次第に勉強しなくなります。そして大好きなギターを毎日弾いて、毎日友達と遊びます。
そして成績はガタ落ち。 でもね。それでいいんだよ。その時に遊んだ友達は今でも大切な存在だからね。 俺の部屋でみんな集まってギター弾きながらみんなで歌ったり、ビデオ見たり、一緒に風呂入って食堂で夕飯食ったり、合コンいったり。友達に恵まれるから安心して専門学校に行きな。

大丈夫。ちゃんと卒業して憧れだった東京の会社に就職しているから。

■サラリーマン生活14年間の概要

結構長い間、東京で社会人生活を送るよ。14年間通して、電子部品を扱う仕事に就きます。
と、言っても電子部品を作る仕事ではなく、電子部品が組み込まれたコンピューターを駆使してシステムを作る仕事に就いています。

そう。システムエンジニア(ネットワークエンジニア)の仕事をしているよ。

しかも東証一部上場の大企業に転職します。 しかも正社員で。
一見、華々しく思えるけど、結構苦労するよ。

先に言っておくけど、君はうつ病と離婚を経験します。

だけど最終的に立ち直って東京でのサラリーマン生活を素晴らしい仲間に恵まれ全うします。

だから安心してくれ。辛い思いはするけど・・


■新卒で入社した会社時代(21歳から25歳)

新卒で入った会社は、40人ぐらいの会社で、企業の内線電話を制御するPBXを設置したり、企業内のパソコンをネットワークでつなぐための配線工事をする会社に就職します。その会社では仕事をどんどん習得して毎日が楽しくなります。

会社の方針で配線や設置工事をするだけではなく、システムを構築できる人材を育成するために、俺に白羽の矢が立ったんだ。
そこでネットワークのシステムを構築する会社に一年間出向に行かされて武者修行をすることになったんだ。
新卒で入社してから一年後だよ。

だけど、出向に行かされた俺は本当に嫌でね。
元々、パソコンなんて大嫌いでネットワークとか本当にちんぷんかんぷんでさ。
パソコンすらほとんど触ったことのない俺がいきなりネットワークを習得してこいだよ??
マジできつかった。

出向先の新入社員と一緒に新人研修を受けたんだけど、周りはみんな大卒で頭がよくて学生時代にネットワークの勉強をしてきた人たちばかり。
すごい劣等感を感じたよ。ノイローゼにもなったよ。

出向先で新人研修を終えて部署に配属されたときはこのまま、バックれようかとも思ったよ。
でもね。その時に仕事の中で少し疑問に思った事を出向先の先輩社員に勇気を出して質問してみたんだよね。
俺の質問なんてピンがずれていると思ったけど、質問してみたんだ。

そしたらその先輩社員は丁寧に教えてくれてさ。
俺の質問ってそんなにずれていなかったんだって思えた瞬間から、どんどん質問をしたんだよね。
そしたらネットワークって面白いな~なんて思えてきてさ。

そこからだよ。休みの日も通勤の電車の中でも勉強するようになったのは。
結局、君は一年の出向期間中にシスコシステムズのCCNAっていう資格を取得したよ。

一年間の出向を経て自分の会社に戻ってからは、営業部とタッグを組んでネットワークの仕事を自ら取りに行きます。
エンジニアとしてシステムを提案して構築もやって、それに加えて営業して受注までする仕事に醍醐味を感じたね。

実務を通じて技術力が上がっていきます。こうなると、仕事が益々面白くなり勉強三昧の日々を過ごします。
VoIPやシスコシステムズのCCNPって言う資格も取ります。
給料は安い会社だっただけど、毎日が輝いていたよ。

そして、もっと大きな仕事をしたい。もっと大きな舞台に立ちたいと思った俺は転職を決意します。
結果的に東証一部上場の大企業に転職を果たします。

まあまあ、良い人生だね。

だけどこの後が結構きつい。
でも大丈夫。生きているから。


■東証一部上場の大企業時代(1社目 25歳から32歳)

君は大都会東京でギラギラしたネオンが輝く夜景を眺められるオフィス街のビルで働く事になります。
社員数7千人。福利厚生も素晴らしく、25歳としては高めの年収を得られます。
案件の規模も大きく、社会インフラを支えるようなシステム構築の仕事に携わります。
この会社には25歳から32歳まで勤めるよ。25歳で結婚して2人の子どもに恵まれるよ。

表面上は20年前の君が予想した通りになっているよ。
この会社には係長って言う役職はなかったけど、プロジェクトマネージャーとかプロジェクトリーダーの役割をする仕事もした。
まあ、人・物・金を管理する仕事と言う意味では係長に近いかもね。
パリッとしたスーツを着て全国に出張も行った。ちょっとエリートっぽくない??

だけど、20年前の君はこの時代の俺を悠々自適に過ごしていると思っているのだろうか?
一見華々しく、君が思った通りの人生になっているように思えるけど、実際の俺はきつかった。

キャリアアップを果たして良いステータスも得られたかのように思うが、毎日憂鬱だった。
この頃は地元望月がすごく恋しかったよ。

あ~望月帰りて~な~ってね。
でも横浜で結婚して住むようになってその時の奥さんは長野には行きたくないって言われちまうし。
ちょうど、お父さんのことも考えたかな。
俺に工場継いで欲しいんだろうな~って事をひしひしと感じてたよ。
でも、お父さんはそんなこと一言も言わなかった。喉から手が出るぐらい継いで欲しいって言いたかったんだろうな~。
でもこの時の俺は東京で生きていくって決めてたんだよね。
って言うかそうしなきゃダメだって思ってた。

ところで何が原因で憂鬱っだったかって?

仕事の重圧と労働時間だね。

失敗すれば大規模な通信が止まって巨額な損失が出してしまうそんな仕事を毎日やることになる。
しかも残業時間が余裕で100時間オーバー。
ひどいときは180時間残業したね。

重圧と長時間残業を乗り越えて何とか一つのプロジェクトが終わると今度は火を噴いている別のプロジェクトに行かされてまた 重圧と長時間残業・・・・
これの繰り返し。

大きな会社ともなると、職場の環境に耐えられなくうつ病になって半年とか1年会社を休む人が少なからずいるんだよね。
俺はそういう人たちの事をかわいそうと思いながらもどこかでバカにしてた。
単なる甘えでしょ?ってね。

そんな俺がある時うつ病になった。
もう会社に行ける状態じゃないんだよ。

え・・・・
俺がうつ病・・・?

そんな事を考えれば考える程、罪悪感に襲われてうつ病が悪化する。
自殺しようとも思った。毎日死にたいって思った。でも怖くて死ねない。

自殺する度胸がなかったんだね。
と言うより生きていく勇気の方が強かったと思う。


そしてなんと精神病院入院することになる。しかも入院中に離婚・・・
はっきり言って俺の人生終わったと思ったね。

絶望的だった。本当に。
でもうつ病は必ず治る。そして治った。

うつ病が治ったら開き直っちゃんたんだよね。
ゼロからまた小さなイチを積み上げて行こうって。

この会社に無理していることはない。やめて他の会社に行こうと思って2回目の転職をしたんだ。


■東京六本木の会社時代(32歳から34歳)

自社のサービスを構築したり運用する会社に転職した。
場所は東京の六本木。良い響きだよね。

この会社で過ごした時期は本当に素晴らしかった。労働環境も前の会社に比べれば、はるかに良い。
これまでの経験を存分に活かせる仕事で素晴らしい同僚や先輩に恵まれたよ。
ここで知り合った仲間とは今でもお付き合いしている。

結局、2年も在籍していない、この会社を最後に俺は地元望月に帰ってお父さんの工場を継ぐことになるんだけど、最後の東京生活を華々しく締めくくった。

この頃の俺は毎日会社に行くのが楽しみだった。仲間と一緒に難しい仕事をこなしていく毎日が本当に楽しかった。
このまま東京での生活を謳歌したいっと思ったよ。

でも、このままで本当にいいのかな?って思う時が度々あった。
このリア充な生活が本当にいつまでも続くのだろうかって。

そんな時、自分で商売をやろうって思った。副業でね。
だって東京で独立する勇気なんてなかったもん。

この時代は副業禁止だったけど、会社に内緒でやったよ。

せどりとアフィリエイトをやった。

せどりはまあまあ儲かったかな。これまで自分が買った本やCDをアマゾンマーケットプレイスで販売したりブックオフとかリサイクルショップに売っている物を仕入れてマージン乗っけて売ったり。でも結構きついんだよね。体力的に。

アフィリエイトは全く儲からなかったね。ブログの更新は楽しかったけど広告収入はゼロ。

まあ、これはこれで楽しかったんだけどね。

こんなことも含めてこの会社で過ごした時期は楽しかったよ。まさに黄金期。
大きな仕事も待ってたしね。その仕事に向けて気合入れてたよ。

結局、その大きな仕事に携わることなく辞めちゃったんだけどね。

なんでかって??

お父さんが心筋梗塞で倒れたんだよ。お母さんからその連絡を受けた時は、まあすぐ治るんだろって思っていたけど実際は違った。
横浜から電車に乗って佐久にすっ飛んで、医療センターの集中治療室で見たお父さんはしゃべれない状態だった。

その時からお父さんとは話ができていない。


■工場を継ぐ(34歳から39歳の現在)

俺はそんなお父さんを見て覚悟した。
俺が工場を継ぐってね。

これまでお父さんと一緒に仕事したのは、専門学校時代の夏休みに遊ぶ金欲しさにバイトした1か月だけだった。
ほぼ未経験な俺が従業員がいなくて誰もいない工場を継ぐなんて話はいくらなんでも無理だ。

なんてことももちろん考えた。

だけどな。

お父さんが築き上げたこの工場がどんどん廃れていずれ誰かの手に渡るのを横目に、後悔しながら東京でサラリーマン生活送るのと、やったことのない工場の仕事を覚えてお客さんを怒らせたり迷惑かけるのどっちがマシなんだ??

て考えた時、俺には後者しか選択肢がなかった。

かつて、うつ病になれるまで頑張った自分がいた。そこまで踏ん張れるなら死ぬ気で工場の仕事を覚えようって覚悟した。
それに、納品を待ってくれたお客さんがいてくれた。

俺が仕事を覚えて製品を作れるようになるまで待ちますって。

だから俺はそのお客さんのためにも夜中まで機械の使い方を練習したよ。
夜通しでネットワークシステムの技術検証なんてさんざんやってきたから、今の俺でもできるって思ってやったよ。

あ、そうそう。
長野県で出会った人と再婚するよ。しかもかわいい女の子の子供にも恵まれてね。

君は脱サラして事業を起こすって予想しているけど、まあ大体予想通りかな。
正確にはお父さんの事業を承継したわけだが、ただ待っていても仕事はこない。

レーザー、曲げ加工、溶接とかの技術だけ覚えて仕事が来るなんてことはありえない。
この時代は甘くない。自分で積極的に情報発信して、お客さんに気に入られお客さんから忘れらないようにしないと仕事は入ってこない。

そうなると、新しい商品を開発したり新しい営業方法を考えたりする必要がある。もちろん技術力を上げることも。
そういう意味では起業に近いかな。

将来BIGな大人になりたいって言う夢を持っているようだが、残念ながら今の俺はBIGになれていない。


■20年後のあなたへ

拝啓 

20年後はどのような世の中になっているでしょうか?
あなたは59歳になっておられ、還暦直前ですね。

他界したお父さんの年を既に越えています。

20年前の私が予想したことは大きく間違っていませんでした。
精神的に辛いこともありましたが。

目まぐるしく変わるこの時代において、将来を予測することはとても難しいです。
現時点で将来を予測することにそれほど意味はないと思います。

一つだけ予測できるとすれば、今よりももっと多くのお客様、仲間、家族に喜びや笑顔を与えられていると思います。
そしてその喜びや笑顔は会社の利益として後からついてきて、自他ともに認める素晴らしい会社になっていることでしょう。

20年後のあなたが、そのような素晴らしい会社の経営者として活躍されていると確信しております。
20年後、この記事で答え合わせをしていただけると幸いです。

敬具

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